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2020年7月

2020年7月30日 (木)

NOシュヨウ日記 第9回

7月6日 その2
有料老人ホーム探し

大阪北部の比較的落ち着いたホームを見た後、街中のホームに
行った。そこは兄の家に近く、ロケーション的には便利だった。
しかし今のところ空室待ちだった。

「契約済みになっているが入居がまだ」
という部屋を見せてもらった。
カーテンを開けたら窓の向こうは隣の建物の壁だった。
エアコンの室外機が並んでいる。
前回見た施設からの景色は、山間いの住宅と青空だったが、
そことのギャップが大きい。

雨の降る施設の軒先で、どこにすべきか我々兄弟は迷っていた。
窓の外の景色がいい北部は、実家からも遠く、私が行くなら
1時間半はかかりそうだ。今はコロナウイルス対策で週1回
15分しか面会できないらしい。
往復3時間で15分の面会では、引っ越す甲斐もない。

あともう1件、24時間看護師つきの物件を
コーディネーターさんに探してもらう。
タブレットの地図には無数の物件が表示されるが
条件に合うものはわずかだ。

やっと1件、飛び込みで見せてくれる施設を見つけてくれた。
17時を回っていたが、今から行こうということになり、
コーデネーターさんの先導で向かった先は、実家からは
比較的近かった。しかし、大阪市の周辺都市にありがちな
細い細い道を無理やりバスが通るようなロケーションにあった。

施設の中は問題なかったが、窓の外は建築工事中だった。
部屋は空きがあったので、ここでも問題ないのだが・・・。

兄に駅まで車で送ってもらいつつ、話を詰めた。
窓の外の景色で決めるのも変だが「自分が住むならあそこだな」
という点では一致した。

北部の「窓から空が見えるホーム」に決めた。
ちょっと遠いが、おそらく通うのはそんなに数多くないだろう。
年内、母の体と頭がもつかどうかだ。

2020年7月26日 (日)

NOシュヨウ日記 第8回

7月6日その1
有料老人ホーム探し

今回コーディネーターさんが紹介してくれたのは、大阪でも
わりと北部の物件だった。
街中から外れるため、緑も多い地域で、新興住宅地らしい
キレイな家や建物が多い。
部屋も広く感じたし、24時間看護師さんがいて、要介護4が
平均的なところだという(母も要介護4)。

老人ホームにも雰囲気というものがあり、車椅子ばかりの
人が多いところもあれば、食事やリクリエーションを楽しむ
自分で歩ける人が多いところもある。
介護には要介護1~5まであって、
介護レベルが低い人が集まっていると、明るい感じだし、
レベルが高くなると病院っぽくなっていく。

いずれも食堂にて食事提供がある(部屋食ではない)。
食堂を見ると、イスが多いところは元気な人が多いのだ。
テーブルだけあってイスが少ないということは、車椅子の
人が多い、介護度の高い人が多いということになるようだ。

ここはイスが少なめだった。

窓の外の風景は山間いに、高台の住宅が見える感じで空も見える。
おそらく食事か風呂以外は、ずっと部屋の中だろう。
少しでも窓の外が明るい感じがいいだろう。

風呂は椅子に腰掛けたままで入れるような設備が、こういう
介護施設には必ずあるようだ。風呂は週2回だという。
「週2回って少なくないですか」と施設の人に聞いてみた。
これは介護保険の範囲でやろうとすると週2回が妥当らしく
どこでもそうらしい。毎日風呂かシャワーを使う我々に
してみれば、ちょっと不衛生な気もするが・・・。

案内された部屋には、備え付けのものはミニキッチンと
トイレ、エアコン、クローゼットっぽいものだけ。
ベッドや車椅子は介護保険の範囲で入手できるらしい
(この介護保険の範囲、というのが素人にはピンとこない)。

従ってベッドはあっても、布団や枕やパジャマは自前だし
TVもちょっとした衣装ケースなども、こちらで準備
しなければならない。比較的元気で長期間住む人は、
冷蔵庫とかいろいろ持ち込むのだという。

母の病院の部屋には備え付けのTVがあったが、一切見ては
いなかったようだ。そんな退屈な状態で毎日過ごしていれば
日常の感覚など麻痺して、ただぼーっと呆けてしまうだろう。
TVくらい見たほうがいいんじゃないか、と素人考えで思う。
少しでも、手術前の記憶や感覚を取り戻してはくれないものか。

つづく

2020年7月23日 (木)

NOシュヨウ日記 第7回

7月4日その2 
病院で面会

施設探しのあと、病院に向かい、母の見舞い。
感染症も落ち着いたので、短時間なら面会できるらしい。
病室のあるフロアのエレベーターのドアが開いたら、
ちょうど叔母が母の乗った車椅子を押しているところだった。

しかし母は久々に会った我々兄弟に声をかけるでもなく
殆ど反応がない。こっちが誰だか分かっていないのか?

1Fの広いスペースに降りて、4人で話をする。
母の声は蚊のなくようなボリュームで、しかも支離滅裂な
ところがあり、1、2割程度しか理解できない。

「ユニバーサルについては、ここでは話すわけにはいかない」
などの謎のフレーズが何度も出てくる。
「ユニバーサル」が何を表すのか訊いても答えてくれない。
まるで闇の組織「ユニバーサル」の秘密を自分は知っていて
誰かに聞かれると、消されてしまう・・・みたいな。
それともただ「USJに死ぬまでに1回行きたかった」
ということなのだろうか?さっぱり分からない。

病室に戻って、ちょっと母がうとうとしている間に、担当の
看護師さんに話を聞く。
その後、母が目を覚まして、何か言っているので聞くと
「○○ちゃんは元気か、○○ちゃんのお母さんやお父さんは
元気なのか?」
と私の妻の名前を出して、聞いてくるのだった。
この数分の居眠りでスイッチが入り、私が誰か認識したらしい。

「じゃあ、また来るからな」と言うと
「あんまり無理するな、お前は忙しいんだから、正月にでも
また帰って来くればいい」
「正月にお酒を飲んだらいいじゃないか」
というようなことをしきりと言っているが、半分方、理解は
できない(ほぼ聞き取れない)。
そしてこの人に次の正月が来るのかは分からないのだった。

病院のあとは、実家に行って父に会う。
父はどの程度、施設に見舞いに行くつもりか、その程度によって
施設の場所も考えたかったので聞いてみた。
意外と少なく「週1回のつもり」だという。
というのは今まで母がやっていた家事を全部自分でやって、
週3回は透析で通院もしているので、年寄りには忙しくて
結構大変らしい。

そうなると父が一人で見舞いに行くというより、我々兄弟が
車で拾って、一緒に週1、2回行くのが正解のようだ。

つづく

2020年7月21日 (火)

NOシュヨウ日記 第6回

7月4日その1
有料老人ホーム探し

新幹線で関西方面へ。兄の車にピックアップされて
母が入居するための「有料老人ホーム」を見に行く。

介護施設には
療養型病院:費用は安いが、病院なので介護は手厚くない。
特養(特別養護老人ホーム):重度の介護が必要な人で
 公共の施設で値段が安いが、入居待ちが多数あり空きがない。
有料老人ホーム:介護サービスつきのワンルームマンション
 といった感じ。値段もピンキリ。安いところで月15~20万、
 高いところは初期費用に100万円以上かかるところも。

特養は空きが期待できないので目当ては「有料老人ホーム」だ。
「療養型病院」は安くて一見良さそうだが、お金はないけど
死を待つ人がただ寝ているだけ・・・みたいな感じなのかな?

実家のある市内の施設Aで、物件を斡旋してくれる会社の
コーディネーターさんと合流、入口で検温をしてから
施設の説明を受ける。

実家に近い、駅も近いので父もバスで行けそうなのが
「施設A」の魅力でしたが、難点は24時間看護師がいないことで
何かあったときに対応できない、病状が重篤になった場合
看護師が常駐する施設に移る必要がある、ということだった。
割と自由な雰囲気で、面会も自由とのこと。

次に紹介を受けた「施設B」は、OPEN間もない施設で
キレイなのだが、実家から離れている、駅近でもないので
父が単独で行くのは難しそう。

しかし24時間看護師常駐なのと立地が悪いせいか
値段がそのぶん安いところが魅力。
とはいえ、よっぽどのセレブなホームでもなければ
条件がよければ値段はこの際、二の次でいいだろう。
面会は感染症対策で予約制、15分程度とのこと。
う~ん、そこはちょっとね。

父がどの程度、面会に行くのかでも選択は変わりそう。

2020年7月19日 (日)

NOシュヨウ日記 第5回

6月26日
お部屋探し

あらかじめネットであたりをつけておいてから、
自動車を飛ばして、異動先近くの不動産屋に行く。
勤め先にも駅にも近い物件で、なおかつ安いやつが狙い目だ。

私は「社員」から「地域社員」になったので、引越し代は
通常会社持ちのところ、半額個人負担になるらしい。

地域社員はそもそも基本給も賞与も低く設定されているうえ
さらに毎月の住宅手当もなくなるので、お部屋探しは慎重にだ。

自宅は敷金礼金のないところを探した。
クルマ通勤のガソリン代が惜しいので、自転車通勤できる
近距離の物件を条件にした。

引越し屋の見積は税込20万だったが、半分自己負担なので
ダンボールなどの資材をなくしてもらい、3万ほど値切った。
ダンボールは会社で出る空きダンボールを活用すると。

とにかくコストカットをしていかないといけないので、
新聞も解約することにした。携帯料金も見直そう。
近くに妻がパートに出れるところがあればいいが。

7月2日
父が面会に行く

短時間なら面会ができるようになり、叔母がまず病院に
行って母に会って来たらしい。
翌日、父が行って面会したとき、母に
「昨日、妹の○○さんが来てくれただろう」という問いに
母は「来ていない」と答えたらしい。

驚いた父は吊り下げ名札にあった「面会許可証」の文字を見せ
「これ、なんて書いてあるか分かるか?」と聞いたら
「面会許可証でしょう?読めるよ、そこまでボケてへんわ」
と答えたらしい。
どうも浅めの記憶は飛んでしまうようだ。

つづく

2020年7月17日 (金)

NOシュヨウ日記 第4回

6月22日
主治医・ソーシャルワーカーとの面談

母の入院先で、主治医の話を聞く。
大画面に母のMRI画像らしきものが4分割で表示されている。
うち1枚は、目を閉じた母の顔で、まるでデスマスクのよう。

医者の説明の通り、放射線をあてた後も、
腫瘍がでかくなっているのが素人目にも分かる。
思った以上に症状が進行しているし、膠芽腫の中でも
もっとも悪性のものらしい。

母の反応がとんちんかんだったり、ぼんやりだったりの件を
聞いたところ、それは、手術後の老人によくある「せん妄」
という状態だという。
ネットで調べると、せん妄は認知症とは別ものらしい。

「放射線治療を予定数やったら、あとは施設から通院しながら
投薬と点滴の治療になるが、治療を続けるかどうか、
家族はどう考えるのか、あるいは本人はどう考えていたのか」
というふうに聞かれた。

治療で余命が延びるわけではないらしいが「進行は多少
押さえられるかも」程度しか期待できないようだ。
週2回、車椅子で介護タクシーに乗せて通院させねばならない。

医者が退席して、ソーシャルワーカーとの面談になった。
介護施設を斡旋してくれる業者を紹介してくれるらしい。

つづく

2020年7月16日 (木)

NOシュヨウ日記 第3回

6月某日
病院に面会に行くが

今までコロナウイルスのせいで面会できない状態だった。
緊急事態宣言も取り下げられたので、
もうそろそろ面会できないか、
実家で一人いる父のことも気になるので、大阪へ行った。

父とともにダメもとで病院へ行くが、
やはり面会はできなかった。
看護師さんに様子を聞いたが、
この目で見ないとやはり状況が分かりかねた。

父によれば、母から電話などまったく連絡がないらしい。
しかし母が着物の着付けを教わっている「着付けの先生」から
父に電話があり「奥様、入院してはるの?」と聞かれたらしい。
どうも母がこの着物の先生に病室から電話したらしいのだ。

父にも私にも電話しないくせに、なぜこの先生に
電話したのだろうか?
母の脳内で「着物を着て出かける用事」でもあったのだろうか?
あるいはもう着物を着れなくなったので、処分について
相談でもしたかったのだろうか?

私の異動先の事業所が決定した。
それに伴い、いくつか人事異動が発生したらしい。
巻き込まれてしまった人、すみません。

つづく

2020年7月14日 (火)

NOシュヨウ日記 第2回

5月某日
本社に相談

私の住む中部地方の端っこから、大阪の実家なり病院なりに
通うのには4時間はかかるので、ここに住んでいたのではダメだ
と判断した。本社に電話して事情を話し、関西方面の事業所に
異動させてもらえないか相談した。

個人の希望で異動はできない、次回の異動のきっかけで
考慮はするけど、いつになるかは分からない。
どうしても異動したいなら関西方面限定の「地域社員」に
なれば異動させられる、とのこと。

私は6月中旬付けで雇用形態を変えるよう決裁書を提出した。
地域社員になると給与が下がるが、ここはやむをえない。

5月某日
一日退院

母を自宅で介護できるかテストするため、ケースワーカー
みたいな人とともに、兄と叔母が母を実家へ連れていった。
兄によれば、足がいうことをきかない母を車から降ろして
家にひっぱり上げるまでで一苦労だったらしい。
やっとのことで食卓のイスに座らせた、とのこと。

トイレの介助ができるか試したが、これも難儀したらしい。
うちのトイレの床は廊下から段差があり、そのうえ狭い。
身障者用トイレのような手すりもない。

兄は「これは家で介護はムリだ、施設に入れるしかない」
という判断に至った。そりゃあそうだ。家には父しかいない。
父ひとりで人間ひとりトイレに座らせたり、風呂に入れたり
とてもじゃないが1日たりとも不可能だ。

つづく

2020年7月13日 (月)

NOシュヨウ日記 第1回

人生には結婚とか就職とか大きなイベントがありますが、
死ぬのは最後の一大イベント。
春先に母親が倒れて、なんとなくぼんやりと先に見えていた
死ぬ、ということが目の前に現れました。

一生に2回しかない親の旅たちですので、ここはしっかり
記録に残しておこうかな、ということで
本来のブログのテーマとは外れますが、シリーズ連載で
お送りします。
題して「NOシュヨウ日記」。


某日
大阪の母からの電話

「お母さんな、ちょっと頭がふらついてて、足ももつれるし
入院せなあかんようになったんや。心配させたらあかんから
電話せんとこかな、思ったんやけど、一応言っとくわ」
という内容だった。
母は80半ばだが、その割にはよく喋り、活動的な人なので
突然入院かね、という思いだった。

後日、どうも脳内で出血だか、水がたまっているだからしい
というのがわかった。

5月上旬

MRI検査で病気の原因が分かった。
どうやら脳腫瘍らしいと、大阪在住の兄から連絡があった。

5月16日
手術

手術ということになった。これは脳内にたまった血だか水だかを
抜いたうえで、どういう腫瘍なのかを調べる手術らしい。
命に関わる手術ではないとのことだったので、兄と叔母に
任せて私は行かなかった。
後でそれが失敗だったとわかった。
この手術の前後で、母はほぼ別人のようになってしまったからだ。

兄からの電話で、医者からの説明を聞いた。
脳腫瘍の中でも悪性の膠芽腫(こうがしゅ)というもので
取り出すのは不可能、余命は1年程度、とのことだった。
電話の兄の声は震えていた。

兄によれば(私の知っている)母の最後の言葉は
「今まで人のために頑張って生きてきたのに、なんでこんな
病気にならなあかんのやろ」だった。

確かに私が小学生の頃から、フルタイムの共働きで
私は当時の言葉で言えば「鍵っ子」だった。
母は仕事帰りに市場に寄って買い物をし、
夕食の支度をし、終われば後片付けをし、翌朝は洗濯をし
父の弁当を作り、仕事に出かけるという毎日だった。

老後は父の趣味だった詩吟を自分も遅れて始め、
師範だか何だかにまでなり、詩吟の大会があると
審査員やらなにやらで、運営側の仕事もこなしていた。
80過ぎても「忙しい、忙しい」と言っていた。
私はそれはそれで忙しさを楽しんでいるのだと解釈していた。

人のために頑張ってきた、という母の言葉には
「もう少し、自分へのご褒美があってもよかったんじゃないか。
人の世話ばかりしてきた人生だったな」
という意味があったのかもしれない。
親孝行が足りなかったというわけだ。

つづく

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